昭和45年11月18日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて、みしのぎをする様になれ。」

 「みしのぎをするようになれ」と。みしのぎということはどういう事だろうか。ここへ参って来て段々信心を進めて行く。分からないところは尋ねて。いう信心の奥がへ奥がへと進んで行く。そういうあり方にならして行きよれば身に徳を受けて行くだろう。そこで身に徳を受けて行く、見に徳を受けていくということが私はだからみしのぎをする様になるのだとこう思う。だからお道の信心に依って徳を受けていくということはどういう事かというと、とにかく有難くなることだ。
 昨日或方がお参りに見えまして、まだ一年あまりしか参って来ませんです。それで家庭の中にとりわけ嫁に対して子供達はお母さんが甘いからいわゆる義姉さんがまあ、ま、段々横着になんなさるという様にその言う、小姑達が。ところが先生私はですね、それとは反対、そうではなくてから段々おかげ頂いて行きよるという様にしか思えないと言われるんです。例えば親が子供を見て不平を感ずる、不足に思う。嫁ごにまちっとどうかあってくれたらいいのにと思う。実際に私もその話を聞かせて頂きよって、ほんとにお母さんはなかなか寛大だなと私は思わせて貰うた
 。それで不平不足が出らんどころか、かえって段々おかげを頂いてもう家に来て三年余りになるが、の間にほんとに家の嫁としての段々育って行きよるとしか思えないとこういう訳である。私は信心して徳を受けて行くということはそういう事だと思うですね。今迄心配になりよった事が心配にならん様になってくる不思議に。不平不足に思いよった事がそりゃあ以前とさほど変わってないが、以前よりもかえって困った事になって行きよる様にあってもです、それが全然心に引っかからない、不足に感じない。
 それを例えば遠路の所を参って来るがとこう言うて居られます、遠路の所を参って御理解を頂くことが楽しみでお参りをして来る。ね、一言でもという信心意欲を持って新しい信心の知識を身に付けて行く。ほんとにお話を頂きゃあ頂く程、もうそうどこではないとこう思ういわば様に段々おかげを頂きよる。ね、そういうあり方が一年余り続かせて頂きよったら、不平に思う思いよった事が思わんで済む様になり、ね、不安であったり心配であったという様な事が、その不安が薄らぎ、心配が段々なくなっていく。
 私はその話を聞かせて頂きよって、本当におかげ頂いちょりなさるですねと言ってまあ喜び合わせて頂いた事でした。お参りする様になったら商売が繁盛する様になった、お参りをする様になったら子供達がみんな言う事を聞く様になったと。いうなら有難いけれども、別にだからといって商売が繁盛取り分けお参りしだしてから繁盛しだした訳でもなからなければ、子供達がなら素晴らしく成長して行きよると言う事でもない。
 それはそうそういうことはないのだけれどもです、嫁に対してでも嫁に対する見方というものが、その様にいわば豊かな心というか寛大な、ま豊かになるとか寛大になるというのじゃなくてですねえ、やっぱりおかげを頂くんですね。こりゃもう理屈じゃないです。ね、その信心をさせて頂いて、遠路の所を参って来て、お話を頂かせて貰うて御理解を頂くことが楽しみで、信心の喜びがですね。
 その喜びがですねもうその困った事に見えない、難儀なことに見えない。というのが私は本当であろう、真相だろうとこう思うのです。私共でもほんとに有難い、勿体ないと言うて居る時には不平不足のところなんか見えやあしませんもんね。見えても全然これに感じません。信心見よって。もう信心が少おし荒れて来たり抜けて来たり、目が粗うなって来るとです、もう一言一言がどうか口ばし入れたくなったり、口上言うごつなったり、心に不平不足を思うたりするようになります。ね、皆さんも同じこと。ね、
 遠路の所をこんなに朝早うから合楽へ合楽へというてお参りをして見える。ね、そんなら、おかげを頂くから参って来る、ね。おかげをと言うだけではなくてです、商売なさって居られる方がなら合楽にお参りしたけん取分け商売が繁盛してきたと言うのではなくてもです、ここへ参っていわば尋ねる所、ね、新しいいわば御理解を頂かせて貰い、ね、新しい信心の勉強が出来る所に新しい生き方が、ね、所謂思い方考え方が変わって来る。信心させて頂く喜びが、いわば心配になる事が心配ならん。
 腹の立つ様な事が全然腹が立たぬ様になる。私は先ずね、そういうおかげの頂ける事が有難いとして楽しいとしてお参りして来る信心でなからなければです、信心して徳を受けることは出来ません。信心してどんなに百万長者になったってです、はあ信心する様になったから商売が大繁盛する様になってと言うたってです、それではねかえって頂いたおかげが重荷になるです。
 信心しておかげを頂いた健康がかえって困った元になるです。ね、信心して徳を受けて行くということは私はそういう事だと思う。信心して徳を受けていくということは、ね、心配であったことが心配でなくなる、不平不足に思いよった事が不平不足でなくなる。ね、私はどうでもね、そういうおかげを頂かせて頂く為にここへ参って来るということでなからなきゃいけんと思うですね。その先ですよねおかげは。
 みしのぎをする様になる。みしのぎと言う事は、人に頼まないでも何でも自分で出来る様になる。ね、あれが欲しいと言やぁ、それを自分の働いた金で買える。ね、温泉に行きたいと思やぁ温泉に行ける。あれが食べたいと思えばあれが食べられる。自分でここが痒いと思えばそこが自分で掻けれる。人に迷惑をかけない自分で何でも出来る事。それがみそのぎをする様になると言う事の様に私は思うておった。ね、
 誰に頼まんでん自分で出来るということ。だからそういう事が出来る様になるとです、人間な不平不足が出て来るです。心配が出て来るです。反対ですよね。だあれに頼まんでんもう自分一人で出来る様になってくるとですね、反対に自分の心の中には焦燥が生まれたり、心配が出来たり、腹が立ったり不平不足が出来てくるです。私はみしのぎというのはそういう事だと思った。所がそうじゃあない。
 それとは反対の事。皆さんもそう思われるでしょう。身しのぎちゃあだあれに頼まんで何でん出来ることがみしのぎが出来ることだと。しかもそれなら結構なごとある。所がですね自分で出来るです例えて言うなら。ね、出来ますけれども億劫になってしようごとなくなって来る。例えていうとね、そこにあるものは自分で取れるだけの事が出来る様になってくる。ばってそこまで立って行くのが億却ちゅうごとなるです。
デスからね、もう何でも自分で出来るようになるということはね、が、身凌ぎの様に思いよったら、そういう事じゃあない。それを今日私が申しますね、信心して徳を受けてというおかげ。いわゆる、今迄不平不足に思いよった、今迄難儀に感じよった、腹が立ちよった、心配になりよった事が、心配にならんで済む様になり、腹が立たんで済む様になり。お母さんな馬鹿じゃなかの、あんたこげん馬鹿にされちから。
 腹も立てんなとかえって言われるぐらいにならせて頂いてです、成程ほんに一年前ならば、そげん言われれば腹の立ちよったかも知れんばってん、お母さんはほんとにそのことが、腹の立たんごとなったという様にです、ね、全然ね問題で無くなってくるという様な、信心が段々身に付いて行くということ。ね、そういう信心をさして頂く様になったらどういう事になるか、いわゆる身凌ぎが出来るようになる。
 昨日、何時も家内が病院から一時の御祈念にお参りをして来るんですけれども、なかなか御信者さん方が今三名かないし四名で毎日介抱させて頂いて居ります、手術以来。それもやっぱお母さんを外さん又外されない訳ですから、電話をかけて参りました。こういうことでおかげを受けて行きよるけれどもなかなか手が外せませんからと言うから、あの電話で申しますから電話で申しました。ね。
 自分で参ろうと思いよたっちゃ参り出来んぞと、お繰合わせを願ってお参りして来い。お繰合わせを願うからお繰合わせを頂いて参って来いと、言うて電話を私返事致して居りました。もう自分で参ろうと思うと手が外せない。けれどもね、お繰合わせを頂けばお参りが出来る。お繰合わせを願え、どうしても日に一遍お参りさせて頂いて、お取次を頂いて帰らにゃ心許ない。お繰合わせを願うとくからお繰合わせを願えと言うて居りました。それからまた一時間ばかりして又電話が掛かってきた。
 おしっこが出らんで苦しんで居りますからとこう、すぐにお願いさせて頂こう。それから十分くらいしたら又電話が掛かってまいりまして、お願いをさして頂いて屋上に上がってから御祈念をさして頂いて降りてきた時にはもうそれこそ自然に気持ちいっておるようおかげを頂いたと言うて電話が掛かってきた。お礼の電話である。どうぞお礼参拝が出来ますようにという事であった。
 お礼参拝が出来るようにお願いさして頂こうと言うたら夜の御祈念にお参りさせて頂いた。もうおかげを頂いてもう皆さんのほんとにもう真心一杯の奉仕を受けて、おかげを頂いて居ると言うて参って参りましたが、段々意識がはっきりしてまいります、今体はもうこうして動けない状態にありますから字を書くことを色々の要求する時には字を書くんですね。おかげを頂いてからお腹がすいた、ひもじいち書いて、まあ食べられないものですからね、ま牛乳を大変な事ですよね。
 鼻からこう入れてそこからまあ、牛乳を頂かせると言った様な状態。電話で言いよりました。電話でもそれを言いよりましたが、ここ参りましてから幹三郎がこういう事を書きましたと言うてから書いた物を持って、頑張ります親先生。と一生懸命頑張っる訳ですよね。こうちっと前後してすこうしまだほんとじゃないでしょうね。初めだけ死のうごとあった。息がされなかった後は覚えとらん。と書いとります。
 初めだけは死のうごとあったと。息がされなかった。後は覚えとらんと。これは麻酔をかけられた時の事でしょうね。僕が手術をして居る時はいとなかかと思っていたけれど、痛かったと。小便が出たことを親先生に早く早くお礼を言うてくれ、電話かけてとすぐ電話をしたらしい。僕が手術が終わってすぐ気付いた、叔母ちゃん(妹のことですね)が来とったら手を握って貰うたと書いてあります。
 もうそれこそそれこそ死のうごたるいわば修行をさせて頂いて居ると言う事を感じます。こりゃ親たるもの、こりゃ頑張らにゃいけんなと思いました。ほんとにこっちはよかつのごともう平生、もう平日とひとつも変わらない御用をさせて頂いておる。だからそれはもう素晴らしい事と思うて居った。けれども子供が死ぬごとある修行さして貰いよるとに只平然として居れれるということがおかげとだけではこりゃ足りない。
 今日からもちっと頑張らにゃと私は思わせて頂きます。「頑張ります、親先生」と頑張り抜かせて頂くとこういうのである。そこにです、そういう死ぬ程の頑張りをして居るところにです、ね、沢山の人が見守って、さ、どうはいとうないであろうか、汗が出るのではなかろうか、便所へ行きたくありなさるのではなかろうか、もう絶えず周囲の者がそれに気を使って居る。
  所謂飲む事も食べる事もさして頂くことも皆んな周囲がして下さる。私はねみしのぎをすると言う事はその様な事だと思うですけれどね。今日私はそういう様に思います。みしのぎをすると言う事は自分で食べられる、分で飲めれる、ね、自分で平気で便所にでも行ける。成程それは私は身凌ぎだと思うて居った今迄は。けれども私が出来ると言う所に我がある。我があるから不平不足になったりね、そこにある物でも自分が取れるのに億劫になって「おいあれば持って来んか」と言う様な事になる。
 言う事を聞かんと腹が立つ、ね。身凌ぎと言う事はね、自分で出来るというのではなくてです、ね、全てが神様のおかげで食べさせて頂くのだ、動かせて頂くのだ、ね、神様のおかげで食べさせ頂くのだ飲ませて頂くのだ。許されて飲むのだ食べるのだと言う事がです、ほんとに分かった私は姿がみしのぎだと思うですね。そこでです私は只今ね、昨日お取次させて頂いた或婦人の方に対して、一年ばかりしかまだ参って来ない婦人がです、嫁なら嫁の事に対して全然気に掛からん様になったと言う様な信心なんです。
 心配になりよった事が心配にならん。不平不足言いよった事が不平不足にならん。腹の立つ様な事でも、ね、どうしてあの位の事で腹が立てらっしゃるじゃろかとかえって思うぐらいにある。平素からはもうあんた馬鹿じゃなかろか、こげんな馬鹿にされちから腹も立てんなと言われる様な中にあっても腹が立っとらん。おかげ頂きよるね、助かって行きよる証拠と私はそう言いました。昨日言うたり又思いも致しました。ね、
 助かって行く姿と言うのはそれだと思う。信心して徳を受けてと言う事はそういう事だと。そこで次にみしのぎが出来る様なになると言う事はです、ね、私で一切の事が自分で出来ることはないというほんとの自覚が出来ることなんです。自分で運転して此処へ来たごと思うとる。自分で歩いて参って来たごと思うとる。ね、だあれの世話にならんでん、必要なもんな必要で自分の金で買うと思うておる。
 そういう間はね、私はまだみしのぎでないと思う。みしのぎというのは、神様のおかげでお参りさせて頂いた。神様のおかげでなからなければです、今日もここへお参りすることすら出来なかったんだという私は本当のそういう自覚、言うならば今の幹三郎じゃないけど、「我 無力」である。どうする事も出来ない自分でなのある。そこになら手取り足取りする人が周囲に居られる様にです。
 私共が何にも出来ないという自覚に立たせて頂いた時にです、一切が神様に許されて神様のおかげを頂いてこれが出来て居るんだというところにはです、全ての事に対する感謝の念というものがいよいよ強うなって来る。どんなに考えてもおかげじゃなと、どんなに思うてもおかげを受けて居るなと、そのおかげの自覚実感がね、成程腹の立つ様な問題も腹の立つことすらもなくなってくるだろう。
 そういう有難い中にあるのですから、普通だったら心配しなければならんのだけれど心配せずに済む程しのおかげが受けられる。ね、神様のおかげでこうあらせられておるんだと私は分からせて頂くという、ね、そこまでの信心が私はみしのぎだとこうい思ういます。今まで私はみしのぎとは、だあれもお世話にならんで自分で出来ることがみしのぎの出来る信心と思うて居った。そうではない、自分は何にも出来ない。
 そこに水があるけれどもそれを自分で取ることすらも出来ない。神様のおかげを頂かなければ頂けることじゃあないということがです、ね、この手が動いて居るから足が歩けて居るから、そこにある水の所に歩いて行けるのであり、手で掴むことが出来るのです。ですから自分じゃないね、神様のおかげを頂かなければ立ち行くことではないと自覚が出来て来る。そのところにです、全ての事に満空から心の底から感じさせてもらう、有難い勿体ない、ま、なんとおかげを頂いて有難しということになってくる。ね、
 その有難しがです、不平も感じさせなければ不満も思わんで済む。勿論不安も心配もない神様がおかげを下さるんだと、神様からおかげを頂かせて貰うんだというのですから。今日はね、わたしはね、とりわけ信心して徳を受けて行くという事は、その徳を受けて行く過程というのは、自分が段々段々ね、こりゃ馬鹿になって行きよるとじゃなかじゃろうかという位にです。腹も立たん、気にも掛からん。
 心配にもならんという様な私は状態が自分の心の中に育って行かなければいけない。それにはです、遠路の所を参って来るが、ね、参って尋ねる所がないどころではない、この様にして神様の心を分からしてもらい、お取次して頂いてです、分かって行くのですからそれが楽しいのである。参っておかげを頂いたけん、ね、参りゃ参るがたあるけん、おかげを頂きよるけんお参りしよる。成程それも良かろう。又事実おかげも受ける。けれどももしそれだけでです。
 私は信心が終始したら、それこそ何年経ったちゃ何時まで経ってもやっぱり不安な事は不安、心配な事は心配、腹の立つことは腹の立つことで終わって仕舞わなければならん。ね、ですから遠路の所をこんなに早うからこうして皆さんがお参りになるのですから、ね、段々おかげを頂いて不平不足を言わんで済むようになって行きよる自分が楽しゅうならして貰うての信心、それが身に徳を受けて行きよる印なんです。そういうおかげを受けて行くところからです、段々分からせられる事は、ね。
 自分という我を出さんで済む、だれに頼まんでも出来るといった様な事でなくてです、神様のおかげを頂かなければ出来ないというほんとな事が分かって来る。ですから全ての事が有難い対照でばっかりある。みんなが有難い事柄ばっかりである。その有難い中にあるからいよいよ心配も不安もね、ね、又は不平不満も消えて行くことであろう、なくなっていく世界がそこにあるわけです。いわゆる徳を受けてみしのごをするようにならせて頂けれる信心とはそういう様なことだと私は思いますですね。
   どうぞ。